Impressive Sounds

素敵な歌声や音楽を求めて。

「カジモドだけが心清らか」説に違和感を覚える話

ウィキッドと同じくらい曲もストーリーもどはまりしたミュージカル、ノートルダムの鐘。
観てないなら人生損してるから一度は観たほうがいい。
イマイチだと思ったらそれで最後にしたらいいし、心に刺さるものがあれば折に触れてまた観たらいい。


Making of "The Hunchback of Notre Dame" Studio Cast Recording

ノートルダム、もうほんとに音楽が豊かだし観るたびに何かしら戒めを感じるしウィキッドと共通点がすごく多いと思う。
自分の決断と無名の群衆の反応によって人生や運命は動いていくのだと。
だから絶えず自分の決断に責任を持つこと、人々の操作不能な反応にのまれるかもしれないこと。
私はそういうようなことを観るたびに思う。

そんなミュージカルであるノートルダムの鐘、ネットをはじめ様々なところでたくさんの解釈を見かける。
そしてその中でも、舞台上でのとある演出に絡む「解釈」に私は違和感がある。

※今さらだけど大いなるネタバレあり。

カジモト役者は冒頭「ふつうの青年」として舞台に現れ、観客の目の前で顔を墨で汚しコブを背中に装着し、顔と体を歪ませて「カジモド」になるという演出がある。
そうして一度カジモドになったら、ずっと汚れた顔で歪んだ顔体のまま。
要するに「醜い」。
そしてフィナーレで民衆たちが顔を墨で汚し体を歪ませる一方で、カジモドだけが墨を落としたきれいな顔になり、まっすぐな姿勢で舞台中央に立ち上がる。

この演出についてネットで見かけることがあるのは、「カジモドだけが心清らかだからきれいな顔なんだ」という解釈。
正解・不正解とかないと思うし、こう思った人が多いことにも不思議はない。
私も部分的にその解釈はわかるから。
ただ、それよりももっと複雑でやり場のない気持ちがするのだ。

だってカジモドはフロロー・エスメラルダ・フィーバスたちに出会い共に過ごしたことで、いろんな経験をしいろんなことを感じるようになった。
だからエスメラルダと一緒にいたいという気持ちばかりが強くなって周りが見えなくなるし、フロローに不信感を持つのはまだしも、最終的には彼を殺してしまう。
いかなる理由であれ彼がまっさらで真っ白だとはとても思えないし、むしろなんの制御もきかなくなって狂気にのまれてダークサイドに堕ちたともいえる。

だから私から観ればあの演出は、こちらを動揺させ揺さぶるもの。
今まで人々がふつうの人間でカジモドが人ならざるもの(怪物)に見えていたのに、ラストの演出でそれが逆転するといとも簡単にものの見え方は180℃反転するし、人の善し悪しなんて紙一重だという衝撃。
自分も人なんだから彼らと同じじゃないかという絶望に似た救われない気持ち。

ちなみにノートルダムは海外ではまだ観ていなくて、東京で海宝さん、飯田さん、田中さんそれぞれのカジモドを観た。
飯田さんのカジモドは、ぼんやりとした子どものような青年がしかるべき経験と感情を得ていくような見せ方だった。
田中さんのカジモドは、異形の生まれつきゆえどこか最初から諦観して空虚な青年が、エスメラルダに出会うことで束の間人間らしい温度感を垣間見せるような表現だった。
彼らの場合は終わりの演出で「人ならざるもの(怪物)の姿から人間の姿に戻してもらえた」ように見えるので、少しフィナーレでも安らぎを感じる部分があった。

一方で初めて観たカジモドが海宝さんだったからというのはあるかもしれないけど、最も印象深く衝撃が大きかったのは彼のカジモド。
青年⇔カジモドのギャップがひときわ大きく、スタート時点のカジモドがとてもおびえた青年で、他人に影響を与えたり傷つけたりすることから最も距離を置いているカジモドだった。
だからフィナーレでそれを覆してしまったこと、そして「ふつうの青年」に戻ったときの見え方がスケルトンな抜け殻みたいだったこと、「響け鐘よノートルダム」と全員で歌っているときになんだか人の業を担ったキリストのような険しい顔をしていたことがあいまって、哀れで救われないような後味だった。
レミゼを観終わった後の、人のせいとも時代のせいともつかぬ、言い様のない感覚に似ている。

ほんと、最初に観たのが海宝さんカジモドで彼の解釈と歌と演技にとても感動したから、こんなにノートルダムに深入りした。
来年の横浜公演おそらく出てくれるんじゃないかなと思ってるけど、一般発売でチケット取れるかしら…(超絶不安)。
あぁ。
私に彼のカジモドをもう一度観る日が、コンサートじゃなくて劇中で歌うのを聴ける日が、ちゃんときますように。